うつでパニック障害でHSPな私の日常

うつでパニック障害もちで、HSP性質のうつ餅さんとさんにゃんむすめのドタバタ劇場

兄のこと

波乱万丈家族の1番の被害者。

それは兄です。
兄は小さい頃から長男の息子=家名を継ぐ者として育てられました。
全然大した家じゃないんですよ。なのにそこまで長男の息子ってことを意識しなくちゃいけないのか?っていうくらい。

小学生の頃の兄は、快活で友達がたくさんいました。
6歳離れている私はいつもちょこちょこつきまとって、色んな遊びをしたものです。まだ空き地がたくさんある時代でしたから、秘密基地なんかも作ったりして。

そんな快活だった兄が、中学に入る頃からおかしくなって来ました。
友達は3年間通して同じ6人。部活にも入らず、漫画やアニメにどっぷり浸かる、いわゆる『ヲタク』になっていきました。
まぁ、それは兄の嗜好の変化なのでしょうから、それはいいですが、その辺りから母親の言うことは必ず聞く人になって行ったんです。
母親が行かせたい高校、母親が望む成績、母親が望む家長を継ぐ者としての振る舞い。
法事やら何やら、親戚が集まる場所には兄しか出席しませんでした。私は出席したことがありません。『お前は家を出て行く人だから、親戚付き合いは必要ない』と。
母親が望む高校に進んだ兄ですが、何か自分を変えてみたいと思ったのでしょう。剣道部に入部をしたのですが、元々体育系は苦手な兄がいきなり剣道なんて出来るはずもなく、3日で退部。その退部届も母親が書いていました。
それからは帰宅部。高校には仲の良い友達が出来なかったらしく、たまに遊ぶ時は中学時代の6人とだけでした。
本当であれば彼女が出来たり、ちょっとヤンチャしちゃったりという年頃のはずなのに、ずっと品行方正長男として、黙々といきていました。

そして大学。
前にも書きましたが、兄は歴史が大好きで、将来は考古学を研究したいと思っていたのに、母親に「そんな将来お金になるものでもないものに興味をもつな。もっと現実を見なさい」と泣かれ、法学部に進学しました。

兄も大学生としては楽しみたかったのでしょう。演劇のサークルに入り、裏方として色々やっていたようです。その時の兄はとても生き生きとしていました。
でも、そのサークルにのめり込むあまり、授業にあまり出ていなかったらしく、単位を落としてしまい2年の時に留年となってしまいました。

大学の留年なんて、そんなに大事件でもないですよね。でも兄はそこで人生最大のしくじりをしてしまったと感じたようで、留年が決まったその日、頭を丸坊主にして帰って来ました。そして父親と2人きりで長く話していました。

私は母親から兄は留年したとだけ聞いたのですが、10年くらい前に「実はお兄さん、退学しちゃってたの。だからちゃんと学校卒業してるの、あなただけなのよ」と。

は?お兄ちゃん卒業してなかったの?
てか、なんで私には中退したこと黙ってたの?
それ、家族の一員である私だけがなんで知らないの?

と、本当にわけのわからない理屈がまかり通る家でした。

どうやら兄は2年で大学を中退し、父親が懇意にしている法律事務所で、事務官として働くことになったということのようです。
母親は私にはきっちり大学4年行って、その後父親のコネで法律事務所に入った。元々法律家にはなりたくなかったから司法試験は受けないと説明しました。

なんで娘騙す必要あんねん!

と後々思ったものです。

もう、その頃から兄はだんだん壊れていきました。
月曜から金曜は働きますが、金曜の夜に2日ぶんの食料を買い込み、一歩も部屋から出ません。
そして、お酒にも手を出すようになり、何度か急性アルコール中毒で救急に運ばれたりもしました。

その頃に、兄自身が自分の足で逃げ出せばよかったのに、母親の「お兄さんがいないと、お母さん、何も出来ない」という言葉にとらわれ、逃げ出すことができなくなっていました。
元々夫婦仲が良くない上に、溺愛している息子に離れられたら、という恐怖があったのでしょう。
そしてその思いをがっつりと受け止めてしまった兄は、逃げることも、反発することもなく、ただ黙々と生きていました。恋人も作らず、誰とも交流せず。

私が家を出て、地方転勤になっていた頃から酒量はますます増えていたようです。
すでに肝硬変の兆候がでていたそうですから。

でも彼は医者に行くこともせず、黙々と生きていました。

そして、4年前。脳梗塞で倒れたのです。
脳の1/3が死んでいると言われました。この状態であれば、たとえ意識が戻っても、元の生活はできないでしょうと先生に言われました。

私は、兄は長い時間をかけて自殺しようとしたんだな、と思いました。あからさまな形ではなく、徐々に自分を殺していく。
そうでもしないと、あの家を出ることは出来ないと判断したいのだと思います。

私は兄に安らかになってもらいたかった。
でも両親は断固としてそれを許さず、リスクの高い手術を希望しました。

そして、結果、その手術は成功し、兄は帰ってきてしまいました。

兄は、いまでも黙々と生きています。
共依存関係を断ち切ることが出来なくなった母親と2人で。