うつでパニック障害でHSPな私の日常

うつでパニック障害もちで、HSP性質のうつ餅さんとさんにゃんむすめのドタバタ劇場

20代の頃

『家族』ってものは、愛さないといけない!と信じていたあの頃。
でも、愛情を感じる場面はなかったなー。

誕生日も母親が料理をして、それを1人で食べ、なんとなくプレゼント。
小学生の頃はお誕生日会とかもやったけど、なぜか小学2年生まで、と決められていたし。

みんなで鍋囲んで和気藹々、なんてのがないのがうちの家風なんだと思ってました。
私が小学生の中学年の頃だったか、大好きだったおばあちゃんも、父方の兄弟の家へ移り住むことに。

そうなったら母親の天下です。

兄の行く高校も、私の行く高校も、私立で自宅から1時間以内。三教科受験の学校しかダメ、といわれてた。私は公立に行きたかったんだけど、断固反対。
理由は不良か行くところだから。
いや、私立にも不良はいますがな。
大学も、私は手に職つけるために専門学校か四大に行きたかったのに、短大しか認めない!と。
理由はお嫁に行くのに手に職は必要ないし、四大はいきおくれると。
兄も本当は考古学を専攻して学者の道に進みたかったのに、母親が泣いて頼んで法学部に入った。
二言目には家風に合った生活をしなさい!と。
そこそこのゼネコンの重役だった父親のステータスが自分にもついたと思ったんでしょうね。親のステータスなんて、子供にはなんの意味もないのに。

不満はある。でもお金は親が出すし、従うしかない。
表面上は仲良い感じにして、なんとか今を乗り切らなきゃ!と思ってました。

とりあえず就職したら自由に生きよう!

そう思って我慢してたけど、就職も父親のコネで建設関係に行けと。
私は接客とか、ものづくりの業界に行きたかったけど

お母さんの言うこと聞いてれば、間違い無いんだから。

の一点張りで説得を断念。
でもそこから少しずつ子離れ計画を立て始めました。

親のコネで入った会社は財閥系の大手建設会社の子会社。とてもいろんなことを教わって、入ってよかったと思うけど、やりたいものじゃない。丸3年も働けば、勤めたことにはなるだろう、と思い、親にろくに相談せずに会社を辞め、念願の接客業へ転職。
そして、いつまでも実家にいたら、何もわからない人になってしまうと思い、一人暮らしを宣言。
部屋も自分で決めて、ようやく『監視されてる』と言う気持ちから決別しました。

兄はと言うと、親の決めた法律事務所に入り、とはいえ司法試験を受けることはなく、ただただ事務官として勤務。その傍ら、好きな歴史の古書などを買いまくり、次第に出勤以外は部屋から出てこなくなって行きました。

家族で1番の被害者は兄だと思ってます。