うつでパニック障害でHSPな私の日常

うつでパニック障害もちで、HSP性質のうつ餅さんとさんにゃんむすめのドタバタ劇場

そして発病

私自身、その時は分かっていなかったのですが、我が家の人達は共依存関係で成り立っていました。

母親の『お母さんの言うことを聞いておけば間違いない』という小さい頃から受けた言葉。
お小遣いではなく、欲しいものがあった時に母親に申告してもらう、という徹底した金銭管理。

知らないうちに「お母さんがいないと何もできない子」にしてたあげられていました。
気持ちもそう。母親に嫌われたくない。愛されたいと無意識に刷り込まれていて、せっかく独立したのに、毎週末は実家に帰らないといけない、という思いにかられ、毎週帰っていました。

でも実家に帰ると母親と衝突。
帰らなきゃいいのに、毎回帰って喧嘩して、腹を立てているのにまた週末には帰る。

母親が腹を立てていたのは私の仕事について。
父親のコネで入った会社を辞め、接客業についたものの、仕事中に腰を怪我してしまい立ち仕事が出来なくなってしまいました。会社はデスクワークへの異動を提案してくれましたが、デスクワークが嫌で最初の会社を辞めたのに意味がない!と思い、その会社も辞めました。
それから何をしたいか?何ができるか?ということを模索するために、派遣社員として色々な会社で働きました。
この正規雇用ではない、という就業形態も母親の中では『家風に見合わない』と何度も愚痴を聞かされました。

まだ共依存、という言葉も知らなかった私は、離れたいのに離れられないという現実に困惑してました。

そんな状況をどうにかしなきゃ!

そんな時、働いていたコールセンターが、地方に大きな新センターを立ち上げることになり、採用担当を社内募集してたので、異動を申請し、採用されました。

これで家族から離れられる!

その時は物凄くうれしかったなー。

無事地方に移ったのに、共依存となっている私自身の心を理解していなかったため、友達もいない土地で暮らす事、仕事も激務だったという環境に身体を合わせることができず、だんだん夜に眠ることができなくなり、薬を飲んでも効かない激しい腹痛に悩まされるようになりました。
何件もドクターショッピングをし、その度に検査には異常がない、と言われ、なんでこんなにお腹が痛いのに誰も分かってくれないんだろう?と涙が止まらない日々が続きました。
そして、何件目かの病院で、やっと「気を悪くしないでね。よかったら精神科に行ってみませんか?」と言われ、紹介されたメンタルクリニックに予約もせずにその足で受診。

ようやく鬱になったと判明しました。
その時に先生に言われた「良かったですね。これで良くなりますよ」という言葉に涙が止まりませんでした。
それから鬱の治療が始まりました。

その時に共依存と言うことが分かっていれば、実家には連絡しなかったんですが、その時、ネットで知り合った人と結婚を前提にお付き合いしている人がいたので、両親に紹介するために連絡をとりました。

…その彼にも問題があったんですよね。それはまた次の機会でつぶやきますが、彼が問題を起こした時に、弁護士とも付き合いがあった親に相談をしようと仕事の休憩時間に電話をしたんです。

母親は「もうこっちへ帰ってこい、お母さんの言うことを聞きなさい!」と。
でも私はそこから離れたいから地方に移ったのに、それじゃあ意味がないと思ったので「それは出来ない」と返したら

やっぱりあんたは私のこと恨んでるのね!

と言い放ち電話を切りました。
その言葉を聞いた瞬間、息ができなくなり、目の前が真っ暗になりました。よく倒れなかったなぁ…。でも物凄く苦しかった。こんな苦しいこと初めて、と言うくらい。
その後、あの電話の母親の言葉が耳から離れなくなり、思い出してはめまいや過呼吸になり、またあの苦しい思いをするのかな?どうしよう?という思いに捕らわれ、家から出ることが出来なくなってしまいました。

そのことを担当医に話したところ、
それはパニック障害だね
と言われ、休職をすすめられました。

こうやって私はうつ持ち、パニック障害持ちになりました。

長い長い闘病生活の始まり始まりー。