そして離婚 再生
彼の家を出て、一人暮らしを始めました。
もちろん依存体質なわけですから寂しさもありましたけど、3ニャン娘もいたし、仕事も慣れてきていたので、寂しさを感じる機会は少なくなっていました。
それでも別居の理由は『やり直すため』と思ってたんですよね。
前にも書きましたが、彼は人間的にはとてもいい人。
性依存の病気さえ快方に向かえれば、きっと家族になれるって思ってたんです(クソ両親除く)
だけど、ある日その地方で割と大きな事件がありました。
とある地元大手の企業社員が、車で女の人を死なない程度にひき、レイプをする。そういう人とは思えない事件。
その被害者は皆わたしと同じくらいの年齢の方々で、2人は重症でしたが、1人の方は事故で亡くなられていました。
その事件の犯人がつかまり、逮捕映像をみたとき、その男の人はとてもそんなことをしそうでない、優しい面立ちの人でした。
そのときこう思ったんです。
あいつもいつか、こうなるな
って。
性依存はそれこそ本能との戦いですから、よほどの忍耐がない限り、治ることはないのでしょう。
その瞬間
あ。別れよう。
と、ようやく思えるに至りました。
お恥ずかしい話ですが、別れ話はメールにしました。
あと法学部にいた地元の同僚に弁護士事務所を紹介してもらい、慰謝料の取り方も教えてもらいました。
本当は公正証書にした方が確実ですが、彼の顔を見るのも嫌だったので、全て念書にし、彼の元に慰謝料額と離婚届とともに送付しました。
程なく彼から返送があり、念書のサインと離婚届にサインをしたものが到着。
離婚届は12月24日にだしました。
いろんな意味で『再生』したいと思ったので。
届が終わったとき、肩に乗っていた加害者家族、という重荷がとれ、とても晴れやかな気分になったことを今も昨日のことのように思い出せます。
慰謝料は分割で支払うこととし、もし期日に遅れた場合は、延滞遅延金が発生する一覧表を添付しておきましたので、しばらくはちゃんと払っていましたが、1度とだえたことがありました。
こういう時に公正証書を出せば手続きは楽なのですが、彼の家族が法律に詳しいわけはなく、実家宛に延滞遅延金のことを説明し、これ以上私を経済的に苦しめることをするなら、法的機関に相談する、と手紙を書きました。
案の定、すぐに延滞遅延金と共に入金がありました。
それからは、もう滞りはありません。
私にとって12月24日は、皆さんとは違うお祝いをしています。
名付けて『リ・バースデー』
この日だけは、1人でご馳走とお酒を買い込み、好きなDVDを見ながらベロッベロに酔います。
ものすごく嬉しい1日。
私の依存体質のせいで、私は家族を全て放棄しました。
自分の家族も
彼の家族も
自分の家族とは全く連絡を取っていません。
何度か手紙が来ましたが、その都度パニック発作が起きてしまうので読まずに破棄。
父が亡くなった時も、叔母から連絡はありましたが、葬儀には参加しませんでした(その後うつが悪化して休職となったのですが…)
家族を捨てるなんてありえない!
家族はお互いを守るもの。愛するもの。
テレビも本も、映画も世論もみんなそういいます。
でもそれは、家族が家族として機能している人たちの話であって、私は家族というものを結局まだ一度も味わっていません。
ここに帰って来れば安心。
と思える場所は、自分が借りている3ニャン娘とのこのアパートだけです。
だから、私の家族はここだけなんです。
そう言えるようになるのに、12年かかりました。
周りで友達が親の介護をしている話を聞くと、心が痛くならないと言ったらうそになります。
でも、愛を感じていない人の介護をするのは偽善だと思っています。
だからしません。
非難もされるでしょう。
理解できない人もいるでしょう。
でも、じゃあ私がなにをされたか?何をされなかったのか?を私として体験出来る人はいません。
これは、私が私であるために下した決断なんだと、心から言えます。
私は、やっと、私になれる資格ができたんです。